◆  コラム その十二(だいこくさま)  ◆

 「だいこくさま」について、お話しいたしましょう。
 だいこくさまは、正式なお名前は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)と言います。国民に愛唱されてきた「だいこくさま」の歌詞には、大きな袋を肩に掛けたお姿が描かれていますが、それは奈良時代初頭に編纂された『古事記』という書物に登場するお姿によったものです。

 だいこくさまの多くの兄神は、八上比売(やかみひめ)という綺麗なお姫さまに求婚するため、われ先にと急いで姫のいる高志(こし)の国へ向かいました。そのため荷物をすべてだいこくさまに背負わせたのです。兄神の後から向かっただいこくさまは、途中、因幡国(いなばのくに、現在の鳥取県)で鮫に皮をはがされた白兎(しろうさぎ)に出会います。
 先に向かった兄神らは、姫への求婚で頭がいっぱいで、白兎から傷口の状態を詳しく聞くこともなくいい加減な指示をしたため、かえって悪化させてしまいました。
 その後、大きな袋を背負っただいこくさまがやって来ました。だいこくさまは、兄神らと違って白兎の話を良く聞き、適切な指示を与えて丁寧に介護したため、傷口はすっかり元通りになりました。
 白兎は大変悦び、だいこくさまこそが八上比売と結婚することができる、と預言しました。その預言通り、八上比売は、兄神の求婚を次々に辞退し、だいこくさまの求婚に応じたのでした。こうしたお優しいだいこくさまのご神徳を、多くの人々は崇敬してきたのです。

 ところで、だいこくさまのように大きな袋を背負った神さまは、仏教でも見られます。大黒天神(だいこくてんじん)というインドの神さまです。この神さまは、真言宗や天台宗などの密教で描かれる曼荼羅(まんだら)図では、右手に小槌を、左の肩に大きな袋を背負った姿で描かれています。この神さまが密教とともに我が国に伝えられました。そして、鎌倉時代に密教系の寺院が各地に建てられるようになると、それにともなって大黒天神の絵や像も多く作られるようになったのです。しかも、そのお姿がだいこくさまのお姿とよく似ていることから、いつのころからか同じ神さまと考えられるようになりました。それが有名なだいこく像です。
 だいこく像の大きな袋には財宝がたくさんあり、人々にそれを分け与える福の神としても知られています。これは欧米のサンタクロースによく似ていますね。我が国にサンタクロースが伝えられるまでは、まさにだいこくさまがサンタクロースの役割を果たしていたともいえましょう。古いお屋敷には、今でも台所や大きな柱に恵比須像とならんでだいこく像が祭られています。それは、誰もがだいこくさまから幸福をいただこうとした素朴な信仰の名残といえます。

 ところが、大国主大神をお祭りする出雲大社の御神像は、大きな袋も小槌も持たず、ただ丸い玉をお腹の前に抱きかかえるように両手で持っています。こうしたお姿は、おそらく江戸時代頃に『日本書紀』に登場するだいこくさまの話から考案されたものでありましょう。
 その話とは、だいこくさまがおん身に幸魂(さきみたま)と奇魂(くしみたま)のご存在を発見され、それによって生かされてきたことを自覚した話です。
 だいこくさまは我が国を完成させた国作りの神さまですが、そのご偉業は、ご自身のお力で成し遂げたのではなく、おん身に宿るこの幸魂・奇魂のお蔭であると悟られたのです。ここにだいこくさまの大いなるご神徳があるのです。
 わたくしどもは時に大きな仕事を成し遂げた時、誇らしく自慢することがあります。もちろん、自負心がなければ、立派な仕事はできません。しかし、多くの場合、それは自分自身で成し遂げたのではなく、そこに至るまでには多くの協力あってこそ成し遂げられたはずです。
 たとえば、受験生の場合、志望の学校に合格したのは、もちろん自分が一生懸命努力した結果でありましょう。しかし、合格するまでには、諸先生のご指導や友人等のアドバイスや励まし、さらに両親や兄弟姉妹が温かく見守って下さったからであり、決して一人の努力で成し遂げたものではありません。
 このようにわたくしどもは多くの協力の中で生きているのです。ただし、だいこくさまは、それ以外にも深く感謝の念を捧げるところがありました。それが幸魂・奇魂であったのです。
 だいこくさま、海の彼方から光が飛んできて、その光とお話しをされている中で、その光がおん身に宿る幸魂・奇魂であることに気づきます。そしてその御霊に生かされている、という自覚を得ました。
 この幸魂・奇魂とは天つ神の御霊である、と中世の神道家は説明しましたが、わたくしどものご先祖様の御霊と考えてよろしいでしょう。わたくしどももこの御霊を身に宿すことで、生命を受けるのですから、やはりこの御霊に感謝しなくてはなりません。つまり、幸魂・奇魂は、わたくしどもの命の原点なのであります。
 ところが、わたくしどもは周囲の人への感謝は忘れずに行えても、自分が生かされている御霊にまで感謝することはありません。つまり、最も大事な御霊への感謝を忘れているのです。そこにだいこくさまとわれわれとの違いがあるのです。もちろん、だいこくさまもその境域にすっと至ったのではなく、それまでには数々の試練やご苦労をなされてきました。
 それだけにわたくしどもはだいこくさまの生き方を見習って立派に生きていかなかればならないのです。その第一歩が身に宿る幸魂・奇魂のご存在をだいこくさま同様に自覚し、その御霊に感謝する生活を心懸けることでしょう。
 そこで、わたくしどもはまず謙虚さを持つことからはじめましょう。謙虚さを持つことでそうした自覚に少しずつ近づけることができます。しかし、謙虚さだけでは、今度は引っ込み思案になって偉業が達成できなくなります。そこで、今度は謙虚さによって自覚することができた幸魂・奇魂のご存在を、今度はしっかりと保持するようにしなくてはならないのです。「幸魂奇魂守給幸給(さきみたま・くしみたま、まもりたまえ、さきわえたまえ)」と。
 そうすることではじめて偉業は達せられるのです。つまり、意識的に保持するのです。決して無意識でするのではないところが大事です。ただし、それを持続するのは大変なことであります。そうした大変さを積み重ねていくことで、立派な生き方が行えるようになるのです。しかし、そうした苦労は一切人に見せず、常に笑顔で人と接するようにいたしましょう。そうすれば、おのずと人々はあなたの側に集まり、あなたを頼りにしていくことでしょう。
 以上のようなことを実践されてこられたのが、だいこくさまであります。
 出雲大社の大国主大神のお姿は、米俵の上に玉、すなわち幸魂・奇魂をしっかり抱きつつも、にこやかな笑顔で、わたくしどもを見守って下さいます。そして、わたくしどももそうしただいこくさまを見習った生き方をすることが、おのずと世のため人のためのご奉仕をすることになるのです。それを無意識ではなくしっかりとした意識をもって務めましょう。その時みなさまもきっとだいこくさまがご覧になったのと同様な神聖な光を眼前にすることでありましょう。