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先月より当分祠の隣で解体工事が始まっている。12階程の事務所ビルが建つそうである。鬱蒼とした林や竹林があり、春先にはウグイスの鳴き声が楽しめたものだが、今は更地になっている。今まで気がつかなかったが、こうしてみるとかなり広い敷地だ。
分祠長によると、かつては出雲大社教初代管長千家尊福公の邸宅が在ったという。証明するものがなかったので本当かなぁと半信半疑でいたところ、ひょんなところで面白い資料が見つかった。
両国に相撲を観に行った折のことである。ふと思い立って国技館の隣にある江戸東京博物館に立ち寄った。1階ロビーの床に「100年前の東京」と題する大きな地図が描かれてあった。現代の地図との重ね地図である。当時の分祠は如何であったかと六本木のあたりをさがしてみた。(写真参照)
出雲大社東京分祠はほぼ現在と同じ位置にあったが、なんと分祠を囲む区画は千家尊福邸となっているではないか。分祠長の言われた通りであったが、今工事中の場所を含むかなり広域の区画である。少々驚いた。
それでは公はどうしてこの土地を手放してしまったのであろうか。
ここからはおそらくこうであろうという想像である。
尊福公は後半生は伊藤博文公に依頼され、政治活動を行っている。東京府知事、埼玉県知事などを歴任し司法大臣になっている。だが、当時の人々は私財をなげうって国のために働いていたので、家産が傾くところも多かったらしい。公もこの例にもれず、遂には明治天皇に恩借を願出ている。 おそらくこういった事情で自邸を手放したのではないかと思われるのである。
公は自分の名誉のために政治活動をしたのではない。家の子郎党が集まり「政治活動などして、天子様には借金を申込んだりして、家の財産を倒すのはいけないことではないか」と公に諫言をしたことがあったという。そのときに公は「お前らの言うことはよくわかる。しかし自分がこうして奔走しているのは、自分の栄誉名達の為ではない。このままにおいておくと、世は鹿鳴館時代の思想、欧化万能の思想から、皇室がお倒れになるおそれがある。皇室がお倒れになるならば、その前に千家の家は亡びるべきだ、とめてくれるな(神道出雲百話)」と申したとのこと、 この言葉に公の信念が表れているように思う。
もうひとつ尊福公のこころは分祠の向きにも示されているように思うのである。一般に神社は南向きもしくは東向きに神殿が建てられるものであるが、何故か分祠は東北を向いている。これだけの敷地があれば、社殿の向きも自由に出来たと思われるのにである。分祠から東北方にあるのは皇居である。ここにも皇室を守護せむという公の強い思いを感じるのである。
皇室守護は神話の時代から変わらぬ出雲のこころである。
思いがけず、尊福公の皇室を尊び日本を思う100年前の出雲の精神に思いを馳せることとなった次第である。
平成18年10月
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