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村まつりのときなどに神社ではよく奉納相撲、神事相撲が行われます。 神社と相撲の関係は深いのですが、今では神様をお慰めするためとか余興とか思われていますが、もともとは、神事として地鎮や神意の判断のために行われていたものです。 この相撲の神様として尊崇されているのが野見宿禰命でありますが、この神様は、出雲国造家に大いに関係があるので、今回はそのことを記しましょう。 |
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日本書紀によると、第十一代垂仁天皇の時、大和に当麻蹶速という抜群の力持ちがいて、鉄でも自由に曲げることが出来たので、大変それが自慢で威張って仕方がありませんでした。 天皇これを聞こし召して 「誰か相手になれるものはないか」 とお尋ねになります。一人進み出て 「出雲の国に野見宿禰と申します者、大力無双でございます」 と申し上げましたので、早速召し出されて蹶速と相撲をとらせることになりました。 ところが野見宿禰は苦もなくこの蹶速をうち負かしてしまったというのです。 三世紀初めの頃のお話しですが、相撲の元祖といわれる所以です。 後に野見宿禰は大和にとどまり、その子孫は土師連となり、この家系から学問の神、天神様で知られる菅原道真が出ています。この道真の子孫には高辻、五条、東坊城、清岡などなどの諸名家があり、五条家は相撲の家元です。『出雲国造伝統略』によりますと野見宿禰は第13代であり、『続日本紀』には出雲国造家の初代天穂日命より14世の子孫とあります。 こういうわけで出雲国造家と野見宿禰また菅原道真とは深い縁があるのです。兵庫県の竜野に野見宿禰神社が古くよりあるのですが、東京都墨田区亀沢2−8−10に明治になって野見宿禰神社が新たに創建され、今でも東京場所前には安全祈願祭をしています。 その創設の経緯が千家尊宣氏の『神道出雲百話』(昭和43年)に詳しく載っていますので以下に引用させて頂いて、皆様の参考に供することにします。(以下は引用文です) | |
野見宿禰神社(正面) | ||
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野見宿禰神社 | ||
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尊福がどういうわけで相撲が好きになったのか、よくわかりませんけれども、貞明皇后様の御尊父九条道孝公爵がまた相撲がお好きでした。 相撲の力士といえばもともと徳川時代には大名がお抱えであったのですから、御維新で大名がその実力を喪って、以前のようにお抱えというわけには行かなくなり、力士はみな生活に困っていました。この頃の力士仲間の頭は初代の高砂でしたが、この人は津軽出身で、この人に尊福と九条さんとが勧めて、野見宿禰の縁でこれまた相撲好きの津軽伯爵の土地を貰いうけ、東京の本所緑町に野見宿禰神社を建てました。 そしてやはり先祖の縁で五条さんにも仲間に加わってもらい、五条さんの家に野見宿禰の像があるところから、それを出雲の神さまのところで御魂入れをしてもらい、「相撲を盛んにしたいと思うなら、相撲は国技なのだから、先祖をまず第一に祀らなければダメだ、先祖野見宿禰をお祀りせよ」というわけで、この宿禰の像を御神体として、野見宿禰神社ができることになりました。明治十五、六年のことです。そして初代の宮司には、出雲大社東京分祠の所長をしていた本居豊穎さんが、勤めました。この人は東京分祠の所長から東宮侍講、さらには宮中顧問官と栄進した人で、本居宣長の子孫にあたる人です。そして私が昭和の初め、東京分祠に着任いたしますと、私の上京したことを国技館で聞いて、宮司になってくれと早速頼みに来ました。 こういうわけで私は、野見宿禰神社の神主を二十五年つとめました。この間私がやった仕事はといえば、力士が横綱に昇進し、熊本の司家へ行き横綱をもらって戻ると、これまでは明治神宮で横綱の手数入りをやるだけでしたが、これはオカシイではないか、明治神宮でやることは結構だが、まず第一に、御先祖の前で奉告祭をするのが、本当であろう、とこう言ったのです。 時の相撲協会の会長は竹下勇海軍大将で、さすがにこの人はすぐわかって、武蔵山以来、横綱のゆるしを熊本から貰って帰ると、野見宿禰神社で奉告祭をやらせることにいたしました。私が覚えているのでは、武蔵山、女男ノ川、玉錦、双葉山はもとより安芸ノ海、照国と、ズーット奉告祭をやってきました。今の宮司は私の甥で東京分祠所長の千家遂彦ですが、以上の横綱にひきつづき、今でも横綱の免許をうけた力士は、ここでまず第一に奉告祭をしているそうです。 | ||
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