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| すっかり初夏の陽気になり、汗ばむ日が多くなりましたが、梅雨が明けるまでは、肌寒い日が時折ありまして、衣替えに悩む頃合いとなりました。あじさいが艶やかに花咲く梅雨は、強くない雨が長期的に降り続くのが特徴です。このため、山々はゆっくりと水を豊かに蓄え、これから迎える猛暑に向けて夏支度を整え、また一方では、人間の智恵が造り上げたダムをはじめ、人工貯水池も潤い、水不足に備えます。梅雨は、日本の夏を迎える上で大切な雨季ですが、ジメジメとしていて、食中毒やカビが発生しやすい環境になりますし、或は、河川の氾濫や海岸の転落等での事故が発生しやすい時期です。毎年の事ながら、年長者や幼年者が被害にあったニュースを耳にしますと、心が傷みます。皆様が障りなく過ごされ、元気に夏を迎えられます事をお祈り致します。 長雨が続くと外出を控えるようになり、室内で過ごす時間が多くなる事ではないでしょうか。私事で恐縮ですが、家庭では二児の父として過ごしています。雨の日や就寝前には子供達に絵本や神話伝説を基とした昔話などを読み聞かせています。はじめて出会う物語もあれば、子供の頃に聞き覚えていた物語もあり、色々な話に触れて改めて気付かされる事があり、親子共に学んでいます。それらの物語を子供達が、楽しそうに聞き入ってくれるのは嬉しい事ですが、終りのない「もう一回」には、参ってしまいます。そうした日々の中で、自分を育ててくれた両親の願いを思い、また祖先に対して感慨深くなります。 親達は、物語を通じて何を伝えたかったのか。或は、物語に何を学ぶべきなのか。このような事を考えていたとき、平成10年に第26回国際児童図書評議会(IBBY)ニューデリー大会で皇后陛下が御話なされた基調講演(御題は「子供の本を通しての平和」)を読み返して、改めて学ばせて戴きました。この時の御話に沿って考えていきたいと思います。「児童文学と平和とは、必ずしも直線的に結びついているものではないでしょう。…自分の中に、その後の自分の考え方、感じ方の「芽」になるようなものを残したと思われる何冊かの本を思い出し…」 御言葉にあるように、物語が直接的に人生を指針する事はありませんが、心の深い部分に根ざします。心に根ざした「芽」は、成長していく過程の中で、些少ながら確かな影響を与えて育ち、人をはじめあらゆるものと関係を結ぶ時に、考え方や感じ方の芽も成長し、人と成りが形成されていきます。これを「橋」に例えて御言葉が続きます。 「生まれて以来、人は自分と周囲との間に、一つ一つ橋をかけ、人とも、物ともつながりを深め、それを自分の世界として生きています。この橋がかからなかったり、かけても橋としての機能を果さなかったり、時として橋をかける意思を失った時、人は孤立し、平和を失います。この橋は外に向うだけではなく、内にも向かい、自分と自分自身との間にも絶えずかけ続けられ、本当の自分を発見し、自己の確立をうながしていくように思います。」 特に幼少期から思春期かけては、多感で複雑な年頃であり、いつの時代でも人格形成の大切な過渡期として認められます。この大切な時期を通じて、どのような生にも悲しみがある事を知り、他者への思いが深められていきます。成人した後でも、たえず内外に「橋」をかける事によって自らの依る所、即ち帰属を注意深く認識して、その時々に考えあわせ適当と判断した道を選択していきます。 この後、いくつかの御体験を御話になり、神話についても語られています。 「…一国の神話や伝説は、正確な史実ではないかもしれませんが、不思議とその民族を象徴します。これに民話の世界を加えると、それぞれの国や地域の人々が、どのような自然観や生死観を持っていたか、何を尊び、何を恐れたか、どのような想像力を持っていたか等が、うっすらとですが感じられます。父がくれた神話伝説の本は、私に、個々の家族以外にも、民族の共通の祖先があることを教えたという意味で、私に一つの根っこのようなものを与えてくれました。…もっとも、この時の根っこは、かすかに自分の帰属を知ったという程のもので、それ以後、これが自己確立という大きな根に少しずつ育っていく上の、ほんの第一段階に過ぎないものではあったのですが。」 現代の学校教育では、狭義の意味で昔話や伝説等を取上げているようですし、神話については教職員自体が知らないのではないかと、思われる節が見受けられます。確かに昔話や伝説等は、「むかしむかし或る所に…」のように時間や場所が定まっていなかったり、登場人物が唐突に現れたり、話の筋が突飛する事も否めません。現代的な文法と比べると随分乱暴な所があります。しかし、自らの帰属を知ることは、心が安定するのと同時に、飛翔できることも意味します。翼を広げて、どこまでも飛んでゆける活力は、帰る場所が分かっているからこそ生まれるのです。反対に、その身体は故郷にありながら心が根ざさなければ、さながら流亡の人になってしまします。 物語は心を安定させる事に重点をおいて出来ていますから、それらを紐解く人々の琴線に触れて、自然と人生に馴染み深いものとなります。物語に触れる事により、幼い家族は、いつでも帰れる所を知る事によって安心し、安定して成長していき、親となった者は、自らの帰属を再確認する事により、新たに飛翔する力を享受します。このような価値観は、ロマンチックで理想的過ぎると、一瞥で済まされるかもしれませんが、人と成りや人生を豊かに過ごしていく上では、不可欠な要素だと信じています。 神話や伝説をはじめとする昔話や絵本等の物語は、主に子供向けに作られている事が多いのは確かです。だからといって、物語そのものが子供だけのものではありません。遠い遠い親達は、時代ごとに生きる子孫にも悲しみはあり、失意の時に生きようとする希望を取り戻させ、何度でも蘇ることを願って伝えてくれたと、偲ばずにいられません。 「因幡の白ウサギ」は、数多ある物語の中でも特に身近なお話であり、ご存知の方も多いかと思います。物語の筋は、ダイコクさまの兄弟達が、因幡国の八上比売に求婚しに行きます。ダイコクさまは、袋を背負い従者として御供していた道中で、ワニを騙したウサギが、皮を剥がされて苦しんでいる所へダイコクさまが通られて、ウサギに治療法を教えて助けてあげて、八上比売も娶るという物語です。この物語から窺えるのは、ダイコクさまは医療の知識を有していた事も勿論ですが、それよりも、どのような相手であろうとも和らぎや親しみをもって接する心を大切になされた事が、大事なことのように感じます。 ダイコクさまに係る御話は色々ありますが、こうした御心を私達は「和譲」と称えて、稽古させていただいています。 皇后陛下の御言葉にあったように、これらの物語は直接働きかける事はありません。しかし、「芽」になるものをしっかりと残してくれます。もし、読者の皆様が再び物語に触れる機会がありましたら、皇后陛下の御心に学んだ事を思い返し、物語を楽しんで戴きたいと思います。 追記 今回、学ばせて戴いた『皇后陛下御話』は、出雲大社また出雲大社東京分祠の社頭にて、お分かちしております。御参詣の折に、御自由にお手に取って下さい。 「大國主神が大穴牟遅神(以後、ダイコクさまと称する)と呼ばれていた頃、大勢の兄弟達が因幡国の八上比売に求婚しに行きました。この時ダイコクさまは、袋を背負い従者として御供していました。先を行く兄弟達が、気多之前に着いた時に、皮をはがされたウサギが苦しんでいました。このウサギを見て兄弟達は「これウサギよ。海水を浴びて、風がよく吹く高山の上に伏せていよ。」と云いました。ウサギは、教えられた通りに伏せていましたが、海水が乾くにしたがって痛みが増してきて、いよいよ泣き伏せていました。最後に来たダイコクさまは、そのウサギをみて「ウサギよ。どうして泣き伏せているのだ」と問いかけます。ウサギは答えて「私は、淤岐島に暮らしていました。こちらの国に渡ろうと思い、和邇に「あなた達と私達とどちらの方が多いか比べてみないか。和邇達を集めてここから気多之前まで列をなして下さい。私がその上を走りつつ数えながら渡りましょう。そうすれば、どちらの方が多いか解る事でしょう。」と欺いて、この地に着く寸前の所で和邇達を騙した事を告げました。そうしましたら、最後尾の和邇に捕らわれて、ことごとく皮を剥がされてしまいました。苦しんでいる所に、先に着いた兄弟達が、海水を浴びて風に当たれと教えられたので、その通りにしていましたが、ますます痛みは増してきて、こうして泣き伏しているのです。ダイコクさまは「ウサギよ。急いで水門で体を洗い、その水門にある蒲黄の穂を身におおいなさい。そうすれば元の如く回復するだろう。」ウサギは、いたく感謝してダイコクさまに「八上比売は、兄弟達に心を寄せる事ないでしょう。貴方は袋を背負っているけれども、きっと八上比売を娶る事になるでしょう。」と伝えました。八上比売は、ウサギの伝えた通りに「私は、ダイコクさまの妻になります。貴方達の許へは参りません。」と云われ、ダイコクさまに嫁がれました。 | ||
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