◆  コラム その五(千家尊福公)  ◆

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 今回のコラムは、出雲大社教の基礎をたてられた千家尊福(センゲタカトミ)公についてです。尊福公について、よく知らないという方がおられるかもしれませんが、「♪と〜し〜のは〜じめのためしとて〜」で知られる唱歌 「一月一日」の作詞者といえば、親しみを持っていただけるのではないでしょうか。

 「一月一日」を聴いてみる♪

ご 生 誕
 尊福公は、当時「人生の万能選手」と呼ばれていたように多くの業績を残されており、そのご生涯は布教・教化、国家国民のために奔走、各地を御巡歴されたお暮らしの日々でありました。その御生涯の一端をお伝えすることが出来れば、幸甚です。

  国造家は皇室に比するほどの旧い家柄で、尊福公の頃には国造は生き神様といわれるほどでした。そのようななかにあって、尊福公は、弘化2(1845)年8月6日に出雲国造七十九代千家尊澄公の嫡男として御生誕なさいました。幼名を国丸(くにまろ)といい、嫡子誕生を上下をあげて連日奉祝したと伝えられています。
  時代は、幕末から明治維新の変革期を迎えており、多感な青少年時代をこういった時代背景ですごされましたことは、尊福公に多大な影響をもたらしたことでしょう。
  尊福公も先祖伝来の好学の資質に恵まれ、父尊澄公より国学、和歌の道の薫陶を享け、漢学を雨森精翁に学び、将来国造として立つべく、ご修養に励まれました。その学問の筋は梅之舎千家俊信の『梅之舎三箇條』などにみられる古学の道でありました。


出雲大社宮司及び神官教導職
  明治の初期は宗教政策にも混乱があり、神社界、宗教界にも変革の波が押し寄せました。
  明治5年、28歳にして公は従五位に叙せられ、出雲大社大宮司、第八十代出雲国造を襲職、同年教導職が設置されると、その最高位である大教正及び神道西部管長に補命されました。
  教導職とは、国民教化によって維新後の民心を安定し、道徳の確立をはかることを意図して定められたもので、主として神官や僧侶が任命されました。
  これより尊福公は、明治15年に出雲大社大宮司を辞任するまで、宮司として出雲大社を統轄する立場と宗教家として神官教導職の西部を統轄する立場で活躍することとなります。
  また、尊福公は日本人の正しい道を立てるために、幽冥の主宰としての大国主大神の御神徳を広く人々に知らせねばならないことを確信し、明治6年1月に「出雲大社敬神講」を組織して、自ら広く全国各地を巡って布教に努められました。この組織が、今日の「出雲大社教」の基となりました。
  その後、教会規約などを定めて「出雲大社教会」と改称、組織の拡大と教化整備にあたりました。

  公は古代からの出雲国造家の神統に鑑み、その道統・学統を継承して御神徳を考究し、大国主大神の神学・教学を大成して教義を示されました。この頃より尊福公は出雲神道の立場から出雲大社の社格昇格並びに幽冥主宰大神としての大国主大神の御神徳宣揚のための発言を行っています。
  明治政府の宗教政策は現実面に重きを置いたものでありましたが、この傾向に対し尊福は出雲神道の立場から繰り返し軌道修正にご尽力なさいました。
  天孫降臨に先立つ国譲りのときに結ばれた「幽顕分任の神勅」によって「顕世の“この世”は天照大御神の皇孫がお治めなされること、幽世の“あの世”は大国主大神が主宰なさること」この幽顕二道を明らかに建てることが、神代より連綿と続く出雲国造家の祈りの顕現でありました。明治8年からの祭神論争もこの信念に従ってのことでありました。


祭神論争と大社教特立
  この年から、教導職は神仏別々に布教することになったので、神道をもって国民を導くために全国の神道家によって神道事務局が設けられました。そこで、この神殿にお祀りする神をめぐって論争「祭神論」が起こりました。
  尊福公は従来の造化三神および天照大御神のほかに、幽冥主宰の大国主大神を表明合祀すべしと主張し、反対派はその不必要を唱えて大論争が起こりました。
  その言わんとするところは、天照大御神が表で、その裏をなしてこれをお助けしているのが大国主大神であるというところにありました。
  尊福公は自ら信念とする、世の人々を救いに導くには幽と顕、見える世界と見えざる世界、生と死、これらのひとつながらの安心立命の道を希求しなければならないとする「幽顕一如」の精神を堂々と主張されたのでした。
  これは神道の根底、根幹に関わる大きな問題の提起であり、尊福公の主張に多くの神道者、国学者が支持を表明して、神道界を伊勢派と出雲派に二分して空前の論争が繰り広げられました。
  こんな逸話があります。伊勢派の急進派は「千家の意見は暴論だ、天照大神に対して不逞な心を持っている。尊福を殺せ」といい、尊福公は「自分を殺せばヨケイに出雲の精神がわかる」と一歩も譲りません。竹やりで囲まれ脅迫されたがたじろがず、平然としてその中を歩いたとのことです。これが公の信念でありました。

  この祭神論の神学・教学論争は容易に決着がつかず、結局、この論争は明治14年の勅裁によって政治的におさまるのですが、この勅裁は神学・教学によるものではなく、神学・教学論争としては未決着のままでありました。

  この紛議を通じて、尊福公は宗教上の基本的な見解を異にする神道事務局内にとどまって神道布教することの困難を思い、独自の立場での教化活動を決意しました。
  他方、政府は神社を他の一般宗教としての取り扱いを改め、明治15年1月「神官教導職分離令」を発布、神官が教導職を兼ねることを禁止しました。この法令の神社界にひき起こした波紋は深刻をきわめました。
  これは、神社の神主の布教活動を禁ずるものでありました。法令上、神社の神官は神社の祭祀外の宗教活動が制限されてしまったのです。
  尊福公は、国民教化を禁じられてまで神官にとどまることを宗教家として潔しとしませんでした。
  このまま、出雲大社内にとどまって宮司職のままでは大国主大神の御神徳を広く布教して人々を導くことができなくなりましたので、出雲大社宮司の職を弟の尊紀公に譲り、「神道大社派」を組織し自ら初代管長に就任、ますます布教に専心されるようになりました。


政 治 家
  明治政府は次第に発展をみて、明治23年には国会を開設することになりました。
  尊福公は国会の開設によって日本の国体に憂慮すべきことが起こるのではないかとご心配がおありでした。

  尊福公は当時、大社教の広布に東奔西走の毎日でしたが、ある日神戸より東上の際の汽車中、偶然にも伊藤博文公と出会われました。

  普段謹直で無口な尊福公でありましたが、この時は日本の国体の由来からその前途、国会開設後における先覚者の決心をとうとうと語られたとのことです。
  この真摯な態度が伊藤公の心を動かし「千家さんは宗教家で終わるべき人でなく政治家になる方である」とすすめられ、尊福公を元老院議員に推薦したといわれています。
  これには、後日談がありまして、後に伊藤公は「千家尊福さんを自分がとうとう政界へひっぱり出して、今東京府知事をさせているけれども、あの人を政界に出さずにそのまま神主をさせておいたら、あの人は日本の西の方から、天下の神主に号令するだろうに、東京府知事にさせてしまって、気の毒なことをした」と語っていたそうです。
  尊福公は、元老院議官に次いで貴族院議員に就任し、それからは埼玉・静岡・東京の各府県知事を歴任、明治41年、西園寺内閣の時には司法大臣として入閣し、島根県出身最初の大臣となられました。


ご 晩 年
  尊福公は政治家になってからも、またその晩年においても精力的に御巡教・御巡講を行い、全国各地に歩を進められました。終始一貫、近代に入って間もない日本の行く末に対する危惧と熱き思いがおありであったからでしょう。
  ある時、当時の若い職員たちが尊福公があんなに偉く立派な方になられたのはどんなことをモットーとして御修養になったか、一度その秘訣をお伺いしてみようというので、皆で御前に出てお伺いしました。
  公は微笑をうかべられ「誠、これは神の道の根本であり人道の大本である。平易にいえば、善いことをして悪いことをするな、それだけだ。」
  皆はもっとむつかしい秘訣、立派になれる奥義をお教えいただけるかと思ったら、ただそれだけかとあぜんとして顔をみあわせていると、公は善いことをして悪いことをするな、こんなことは子供でも知っていることだ。しかし誰でも知っていることであって誰でも出来ないこと、これが出来たら必ず立派な人間になれるとおっしゃいました。

  真理はまったく単純なものですが、それを実行するのはなかなか難しいもののようです。
  尊福公のお説きになった誠の道は正にこの点にあるのではないでしょうか。
  公は大正7年正月に御帰幽なさいましたが、前年の高知県御巡教で新聞記者にこう語っています。「私の信仰としては人間は働くべく生まれたもので、先づ自分だけでもよいと思うことなら、終始死ぬまで、何か仕て居るべきものと思っている。そうすることが、身体の為にもよし、隠居は大嫌いである」
  そのお言葉通りご生涯をお道の為に尽くされたのでした。